叫びとささやき/VISKNINGAR OCH ROP
1972年・スウェーデン映画
監督・脚本:イングマール・ベルイマン 撮影:スヴェン・ニクヴィスト 出演:イングリッド・チューリン、ハリエット・アンデルセン(アンデション)、リヴ・ウルマン、カリ・シルヴァン
久しぶりに『叫びとささやき』を観た。初めて観たイングマール・ベルイマン作品は『ある結婚の風景』だった。でもまだ幼すぎて意味が分からず感動したとも何も感想が言えないのでまた観てみたいと思う。この『叫びとささやき』は20代になってから観たものでとても衝撃を受けた作品だった。何故今、またこの作品を再度観たくなったのかは分からないけれど、再びおののきと慈しむ心の尊さを痛感した。
屈指のお気に入りの女優様のお一人であるイングリッド・チューリンは長女のカーリン役。ルキノ・ヴィスコンティ作品で初めて知った女優様で一目で好きになった。この作品をここで先ず選んだのはあの言葉を押し殺したささやきと、姉妹間の情念、愛憎、愛の不毛を気高くいながら神経症的なまでに表現出来るお方は他にはいないと思うから。この作品は3姉妹と召使いの女性の4人の女性の心の描写をえぐり出すものだ。
冒頭の古い大小の時計が映し出されその音に”ハッ!”とする。次女のアングネス(ハリエット・アンデション)の死期が迫っている事や、その家族のこれまでの時を刻んできた証人でもあるのだろうか?とても印象的な冒頭だ。そして、舞台となる「お城」の室内の至る所に「赤」が在る。そして、カメラも「赤」がフェイドインとフェイドアウトを見せる。ベルイマンの製作前の幻想の「赤い部屋に三人の女性がいる。彼女たちのささやきは白い。」というイメージに基づいて製作されていったそうだ。私は世代的にベルイマンの作品はカラーから観る機会となったので、後に遡って白黒作品たちを観ても、どうしてもこの「赤の衝撃」が焼き付いてしまっている。ちなみに、ウディ・アレンはベルイマン・ファンで有名だけれどあの秀作!『インテリア』はこの作品からインスパイアされたと何かで読んだことがあり、「なるほど~!」と思う事が出来る。そう!私がベルイマン好きになったきっかけにはウディ・アレンの存在は欠かせない。
北欧の白く美しい自然風景の描写、19世紀から20世紀辺りの衣装や家具や装飾品にも見とれてしまうのだけれど、”うっとり”見つめる暇など無いのだ。癌に蝕まれ死期の迫るアングネスの痛みに耐える表情とあの叫び!その悲痛な叫びや嘔吐に姉妹は何も出来ないでいる。ただ一人、召使いの女性アンナ(カリ・シルヴァン)は静かに胸をアグネスの顔にやさしく当てる。まるで母の胸に眠る少女の様にアグネスは落ち着きを取り戻す。この作品にはベルイマン作品には書かせないそれぞれが素晴らしい3人の女優様が共演している。三女のマリーヤ(回想シーンで出てくる美しい母親役の二役)を演じるのはリヴ・ウルマンだ!イングリッド・チューリンとは対称的な個性そのままに役柄も対称的。最も母に愛されていたと姉妹たちは子供の頃から嫉妬していた。美しい母といつも笑い合っていた明るい性格のマリーヤ。そんな彼女もまだ愛に満たされてはいなかったのだけれど。
作品について色々書くととても長くなってしまう。ここに登場する4人の女性はどなたも素晴らしい存在感と演技力で息をのむ。ぼんやりと眺める余裕すら与えてはくれないヒリヒリした心理描写と美しい陰影で一気に見終えてしまうのだから。中でも絶対的に忘れられないシーンが再度観て私の胸に突き刺さった。それはイングリッド・チューリンならではの名場面!年老いた夫との倦怠的な愛にうんざりしていた。そんな気持ちと久しぶりに戻ってきた生家での滞在中での姉妹間の心に秘め続けてきた愛憎がピークに達したのだろうか?夫婦で晩食中、ワイングラスを倒してしまって割れてしまう。その割れた破片を一つだけ寝室に持ち帰る。「つまらない嘘よ!」と自分の性器にそのガラスの破片を突き刺すのだ!その痛みを堪えながらもそのある屈折した恍惚感の様な表情でベッドで夫を迎える。品の良い綺麗な白いネグリジェは出血で真っ赤...その血を手に取り自らの顔に付けて笑う。ただ、見ているだけの夫...こんなシーンの意味は初めて観た時は理解出来なかったのだ。そして、あの夫に向ける冷笑の毒々しい美しさはイングリッド・チューリンにしか出来ないと思えてならない。 壮絶なシーンである。ハリエット・アンデルセンの苦痛のシーンも凄まじいけれど、全編に「赤」を必要としたベルイマン。当然、赤には血というイメージも在るだろう。しかし、グロテスクさは微塵も感じられないのだ。人間の心の奥底に潜んだ情念や怨念の部分を映し出しながら、その心の迷いや闘いの果てには光が待っているのだから。それを決定的に印象付けて終わるラスト・シーン。涙すら忘れてしまっていたのに、とても穏やかな涙が溢れ出すのだった。優しい召使いのマリーヤは毎朝、亡き子の写真を前に神に跪き祈る。そのマリーヤがアグネスの形見として大切にレースに刳るんでしまっていた日記に記された言葉が流れた後のある活字。
「こうして、ささやきも叫びも沈黙に帰した。」と。
ある強迫感や心的圧迫による心の恐怖、孤独や苦痛ばかりではなく、輝ける穏やかな幸せもあることを教えてくれるのだ。それが人生なのだと。だからこそ、闇の持つ意味があると思えるのである。
*上記の綴りは2004年・冬のものです。
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